『地震の後に・・・』徒然思う事。阪神淡路・東北・熊本・鳥取・・・

被災者と言えば被災者なのであろう、筆者も・・・。

阪神淡路大震災の時は自宅が半壊、将来を嘱望されていた同僚も二人亡くなった。戦後の平和真っ只中の大都会に突如として起きた未曾有の大災害であった。発生初日、倒れかけていたビルの写真や高速道路の高架から危機一髪転落せずに難をかろうじて免れたバスの映像等、国民の目を釘付けにした。

東日本大震災で国民がアットタイムで目にした映像は、寒中雪降りしきる中全ての物を飲み込んでいった「津波」の地獄絵であった。津波到着前の数十分間のゆっくりとした時間の流れと、有無を言わさず強引に全ての「物」と「人命」を奪った悪魔の如く生きた海水の狂気。そのギャップの恐ろしさをこれでもかというくらい見せつけられた。

それ以外にも、新潟、熊本、そして昨日の鳥取などを含むほぼ全国で大きな被害や不安を、発生地付近の地域の人々は体験し続けている。

地震列島だから仕方ない、と言えばそれまでだ。とはいえ、逆に地震発生を押さえ込んだり、完璧な予知をすることなども100年どころか300年くらいも早いかも知れない。

自然と上手く付き合うというのは、現時点では自然を征服したり管理したりということではない。奢る者久しからず・・、全てに畏怖と敬意の念を持って覚悟して生きていくという事であろう。まずはこの事から理解し、謙虚な気持ちで対応することが肝要だと考えている。

地震の様な大災害の後、時間がたてば何故か何かの責任を他者に押し付けようとする者達が最近は多い様に感じる。自然の摂理は平等に一人ひとりに光臨する。運命という言葉が必要な時もある。あまりにひどい惨状に言葉を呑むことは短期間で、最近は落ち着いた頃、必ずといっていいほど他者に何らかの責任を押し付ける者達がいる様に感じられる。

阪神淡路の時は、もうおしまいかと感じた関西、特に神戸や西宮を中心とした大都会である阪神地域の復興は目を見張るものがあった。全てが少し元気になった頃、東北での大震災は起きた。

津波の被害が伝えられる中、筆者は一人、関西や中部地方で救援物資を買い込み、4日後に宮城入りした。個人行動だったので、高速道路の優先走行やガソリンの確保等、何の一切の特典も無く、想いばかりを支えに現地入りした。二ヵ月後の5月には、青森から宮城までの三陸海岸を、まだほぼ手付かずだった瓦礫の中を自身の生活物資を積み込んで踏破した。そして1年後の5月にも・・・。

当初、放心状態だった被災者たちも、地震発生から二ヵ月後には余震が続く中動き始めていて、そして一年後にはかなり被災者の感覚が変わったように感じた。そう、立ち上がる勇気と努力、そして自分たちの置かれた状況に立ち向かう元気が感じられた。巨大な津波被害という、全てを諦めさせるような大被害の中、被災者達の感情や意識は確実に変わっていった様に感じた。

今回、鳥取でも被害の全容はまだ完全には判明していない中、発生地域の方々は非常に不安な二日目を迎えようとしているのが、自身の経験からも手に取るように理解できる。

国民の多くが共有する不安ということに、立ち向かう時は今。被災者のご冥福や奮闘と、未来に立ち向かう勇気を強く持ち続けられることを祈念し、再び自身が能力の範囲内でできることのみ応援して行きたい。

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