『田舎暮らし・蔵』土蔵には何が入っているのか・・。

アイターンで都会からの『田舎暮らし』を求め、生きてきた周りの環境が違うと実際の自身の感覚と違う事にしばしば直面する。そんな一つが土蔵の中身である。アイターンで山里に住む際、新築ではなく中古の古農家を探す人が一番多いと考えるが、その場合敷地内に蔵のある家屋に出会うことがよくある。筆者もその一人であった。

幼少時育った都会のど真ん中にも蔵のある家は確かにあった。ビルの谷間に、そこだけ日が当たらず、忽然と土蔵のある民家がたまに見られた。今では考えられない事だがそんな蔵のどこか一部は殆どと言っていい程大きな穴が開いており、子供一人くらいなら這っては入れるくらいの穴で、何も知らぬ子供の頃は、「探検」と称して遊び仲間と入れ代わり立ち代り入ろうとしたものだ。頭から入るのであるが、四つん這いで上半身だけ入るとその中のひんやりとした冷気と真っ暗闇に恐怖を覚え、残念ながら大抵の仲間は後ずさりし出てきたものだ。大阪北新地の中央付近にもそんな土蔵があった。東西に走る新地本通りの中心に近い場所で、その隣にあったPタクシー会社の駐車場に向かって穴が開いていた。草野球の合間に探検気分を味わった。

ある日、仲間の一人が入ったまま暫く出てこなかった。10分位してその真っ暗闇から出てきた彼が手にしていたのは戦車や軍艦の絵が描かれた紙切れであった。後になって判ったのだがそれは戦時国債の証券だったと記憶している。彼は「埃だらけだし、真っ暗闇でよく分からないが、こんな物やがらくたが沢山ある。」と言っていた。額面金額の記載されたその証券は子供の我々には紙幣のようにも見え、誰かが指示し、慌てて中に返しに行かせたのを記憶している。その時以来、蔵というものの中には何か大それた宝物のような貴重品が入れられるものと信じ込んでいた。サラリーマンや商売人の子ばかりで、農家のせがれなど一人もいない同級生達も同じように考えていたに違いない。またそれは、都会部にある蔵の中身としては、ごく一般的な収蔵品であったに違いない。

脱サラを期し、周囲を山で囲まれた山村に蟄居する為購入した古農家には、文字通りの『土蔵』があった。外壁に漆喰も塗っていなくて、なまこ壁の袴もない、一部少し土の剥がれた蔵である。一般的には所有権移転時には中は空っぽの筈であるが、前住人の夫婦の「要らないものは入れたままにしていきますがよろしいですか?」との問いに「勿論です!!」とあらぬ期待をしつつ引き受けた。そして・・・、その日所有権が変わった後、一緒に蔵の中に入った。手鍵のような形をした鍵で大きな木製の扉を開ける際、「小さいがこの蔵は良い蔵だに!」と教わった。その時点では、まだ何が良いのか見当もつかなかった。そしてその瞬間素朴な質問が勝手に口から出てしまった。「良い物や貴重品を入れるんですね?」と・・・。予想もしない返答が帰ってきた。「米、入れるだに。」。「宝物入れるのかと思っていました。」と応えると、相手の方がびっくりしたような顔で続けた。「米以外にも・・・。味噌や醤油や・・・。」

目が覚めた。そうだったのか。良い蔵というのは小さくても壁が厚く、湿気の無い場所に立ててあり、なおかつ外からは見えない中の床や壁等にきちんと太い梁や板で躯体共々内装を施してある、食物保管や味噌等の醸成に向く蔵のことであったのだ。

小家のこの蔵は中は二階建てである。階段もあり、それを登ると天井のように水平板が置かれている。天井兼扉のようなものである。1階部分には大きな味噌樽や小型の農機具、そして巨大な木引鋸や鉞、そして漬物石に漬物樽。全て木や竹や鉄製である。建材の入手が大変だったこの集落では、周囲の山から、家の柱までもをこの鋸で切り出したようだ。そして愈々二階に上ると・・・、これまた養蚕に使った笊やその他の器具。蔵は農家の生活用品や収獲した穀物を入れる場所だった事に初めてその時気がついた。

他に少数の掛け軸や額はあった。「天照皇大神」の肖像画の掛け軸に、「大元帥陛下」と書かれた明治天皇の額。驚きはしたが、要は今では不要な物ばかりである。とても宝物を入れる所ではなかったようだ。

別に本心から宝物を期待していた訳ではない。しかし物流の貧弱だった山村の農家にとっては、大切な農産物や保存食を入れる為の『蔵』なのだということがよく解かった。何故この歳になるまで、今までそのことに気が付かなかったのだろう。都会者の浅はかさを心の内で一人恥じた。生活環境や習慣の違いを理解しないで『田舎暮らし』を始める事は本当に失礼な事だと悟った。その後は、お陰で『目から鱗』を体験し続けている。

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