勇士を追悼・遺骨収容仲間の冥福を祈る。

戦没者慰霊の活動を始めたころ出会った方の訃報に接した。

厚生労働省主管の戦没者遺骨帰還事業の一つである拝礼式が、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて今年も皇族をはじめとする参列者を迎え実施された。

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  拝礼式で式辞を述べる厚生労働大臣

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毎年招待されてきた戦没者追悼式や、この式典に参列する為上京する際には必ずお会いするか、時間に余裕がなければ電話で話す尊敬する方が居られた。彼と同じ団体の代表参列者とお会いしたので彼のご機嫌を伺うと、「先日鬼籍に入られた。」との衝撃の知らせを聴いた。ショックだった。

彼は陸軍幼年学校を卒業、陸軍士官学校最終期である61期の卒業生で、本土決戦の為の松代大本営の警備で終戦を迎えられ、その後、最高裁職員としてご活躍された方である。

初めての硫黄島戦没者遺骨帰還事業で一緒になり、父のような存在であった。容姿も似ていた。ご本人にもそのように素直に話した。

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渡島後、島での生活は三食を共にし、収容作業では同じ班員として共に汗をかいた。結団式の自己紹介で、「年寄りだと思って分け隔てしないで、全ての作業をさせて欲しい。」と嘆願され、亜熱帯の炎天下の土堀り作業も休憩時間を割いてまで頑張られた姿が想い出される。

次から次へと掘り出される殉国兵士のご遺骨の状態をご覧になり、涙を流され、戦没者慰霊顕彰団体の役員としてではなく人間としての慟哭に表情を暗くされた。

遺骨収容最終日まで、参加している20歳に満たぬ若者にも負けず全てにおいて一所懸命作業された。そして、食事の際は当時の現役の軍人として社会情勢等も含め色々な話を聴かせていただいた。当時、確か84歳だった。

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島でのご表情や情景は深く記憶しているが、それらは心に残すにとどめさせて頂き、その後も色々お世話になった。友人を紹介し、その友人の亡き父君の軍歴などの照会にも骨を折っていただいた。数限りない恩を感じている。

4月、皇居勤労奉仕に出かけ、4日間の務めを終えて帰宅後電話で話した。日時は定かではないが、おそらくあの日から長くても二三日という頃にご逝去されていたようだ。想えばろれつも回らず、聴き取れないほど小さなお声で憔悴しきっている様子が感じ取ることができたので短時間で会話を終えたが、今から回想すると周囲に感謝の念を表す言葉ばかりだったような気がする。感謝するのはこちらの方なのに・・・。

歴史の生き証人がまたお一人亡くなられた。90歳という高齢には勝てなかったようであるが、こうして我々お世話になった者たちの心の中には、いつまでもしっかり記憶として生きておられる事を伝えたい。

亡くなられるその月まで戦没者慰霊団体の機関誌の編集と投稿をされていたその御遺稿を読むにあたり、同じく慰霊活動をする身として、勇士と崇め、安らかなるご冥福をお祈り申し上げたい。

お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。

(硫黄島の写真は同行時のものではなく、拝礼式の写真は本年の物である。)

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