在籍した企業⑤『廣済堂其の五』関西廣済堂 総務課にての業務 

暫く投稿を行っていなかった。去る3月末を以て、前回お知らせの通り豊中工場は消滅した。勿論建物は残っているが、社内の主だった設備等は搬出され、言うなればもぬけの殻という状態になった。当然爾後入り込むことはできない。筆者が入社した時は、㈱関西廣済堂の本社として、㈱岡山廣済堂、㈱製版センター、㈱科学情報社などの西日本にある関連会社を統括し、数年後には札幌から沖縄に至る全国20か所近くの情報誌出版を手掛ける営業所を管掌する本社であった。

以下、記憶に基づく構成を記してみる。大きくは違っていないと考えているが、誤りのある可能性も有るとお含みおきいただきたい。(アイキャッチ画像は豊中工場終焉時の機械搬出の為に来場した重機)

豊中本社工場。敷地面積約2000坪。その後隣接近隣民家等を購入し資産に加え、徐々に面積拡張。大阪市内にデザイン室を兼ねた企画事業部があり、10年ほど後の最盛期には社員数550名在籍(パートアルバイト除く)、管掌の全国の情報センターを入れると1100名程度在籍社員が居たと記憶。当時別法人であった親会社の㈱廣済堂以下、グループ全社では4500名ほど社員がいたと記憶している。毎年50名前後の学卒新入社員がおり、中間入社社員を入れると年に入社は約200名、しかし、手に職を持って業界を渡り歩く現業部門の職人気質の社員の退社は約150名。高度経済成長時の入退社は凄かったものだ。

在籍期間の一番長かった職場は、間に現業部門の期間を挟み、総務、人事(入社時は人事部門は総務部の管掌であった。)の部門で、当然のことながら社員の給与計算や労働保険(社会保険雇用保険等)、それに広報、渉外、教育研修、衛生管理、防火管理、設備管理、果ては便所の詰まりや床の補修、植栽の剪定に至るまでの営繕業務もその範疇であった。要は、企業として、生産部門や営業部門のような利益を生み出す業務と、経理業務以外の事は全て総務部の仕事であった。

ここでは色々教わり、のちの人生今に至るまでのいい肥やしになった。感謝してもしきれない。営繕に絡んで言えば、浴槽の入れ替えや便器の入れ替え迄できるようになったし、生涯生かすことの無いと考えていた教員免許も、お蔭で新入社員教育の折には役立った。文書管理では図書館司書の勉強が役立ったし、悪徳訪問販売や通信販売、それに有害宗教団体への対応や知識等も得られた。対外的な付き合いにも出席させてもらったお陰で、地域の有力者や消防警察監督署等々との人脈も広がった。数え上げればきりがないが、追って続編以降でも色々紹介していきたい。

次回は、今では考えられないと思うが、大量の社員の社会保険事務等について、想い出を元に述べてみることにする。その後、防火管理や衛生管理、新入社員研修、対外業務、社員の生活に関する事への対応等々徒然に続けたい。

続く

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