在籍した企業④『廣済堂其の四』関西廣済堂緊急情報豊中工場閉鎖・フェイスブック投稿記事より②

廣済堂豊中工場閉鎖の記事を先に挙げた。

以下はその後、工場部門閉鎖後、日を置かず訪問した際のフェイスブック記事を再び引用する。

『青春の舞台』
別に青くはなかったが、また春でもなく、どちらかと言うといつも白夜のような暑い夏のような20年足らずであったが、人間形成を得た舞台ではあったと考えている。
先月操業を終え閉鎖となった工場の、24歳から2年半職長を務めた職場を、許可を得て撮影させてもらった。当時と殆ど変わっていなかった。
色々な思いや想い出が錯綜する。
突然の辞令で翌週からの部署移動、管理部門からの現業部門に異動した日以降、学卒入社二年足らずの役職も無い入社二年目の職長には、係長2人、主任4人、そして20名余りの先輩社員の生活を支え切るには「重い」という他はなかった。
その月、納期厳守の為、翌日の土曜日出勤を急遽全員に課した日、一部の先輩社員から、強い拒否の声が上がってきた。彼らの心情や翌日の休日個人予定を考えると、自身の職務の辛さに負けそうになった。堪える為、工場から出て建屋と塀との間の草生した空地で独り涙を流した。
学卒入社の翌月に第一子、翌年第二子、そしてこの職場に居た頃には第三子まで授かったが、当然在職中は自身の事は滅私の一言であった。深夜帰宅すると、玄関先に小さい靴が散らばっており、それを見つめて数分立ち尽くすということも・・。子供の成長すら気が付かなかった。早朝6時に工場に出勤、夜勤のバイトを帰らせ、夜、再び出勤してきた彼らの顔を見てから翌日の作業準備にあたり、帰宅はいつも終電後。雨の日も風の日も自転車で通うようになった。体重が47キロまで減り、体が軽くなり、自身で言うのもなんだが少しキリっと男前になっていたかもしれない・・・。そのせいかどうか、その後すぐ入社2年余りで主任に昇格させてもらった。
その後、各職場を転々とし、管理職として、退職するまでの間色々な事を学んだ。その事が、同じ同期入社の、一つ職場、一つ職種の者達とは違った人生観を持つようになれたのかも知れない。
先月末(令和二年九月末)で工場は閉鎖になった為か、こうして改めて訪問してみると、この職場に居た頃と風景は何も変わっていない。什器備品が新しくなり、古い製本機械が新しくなっているだけである。昼休み時間に疲れた体を休めるため束の間寝転んだ床も、当時のまま美しく、業界の他社の工場と比べると比類なしである。
ついでに、壁隣の印刷工場を覗いた。部門の職長の机には最後の日の終礼前に召集を掛けた文字が並んでいた。再び涙が出そうになった。故人である先輩社員の元憲兵隊員によく聞かされた、終戦前日の光景が脳裏に重なって蘇った。
みんな!長い間、ご苦労様でした!!
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