在籍した企業②■㈱廣済堂(関西廣済堂)からの転職■介護業界への挑戦・人生転換・コムスン

以前寄稿の「在籍した企業①」では、学卒入社での㈱関西廣済堂(現㈱廣済堂)での在職中の想いを中心に、できるだけ簡潔に起稿した。色々な事件や出来事、失敗や成果も数え切れなく想い出すが、それらについては一旦「在籍した企業・出来事」と題し、別シリーズとして随意挟みながら懐述して行きたい。

さて、前回の約束通り、自身にとっての一世一代の決心、転職という大きな行動に至った経緯を述べる。

時は1990年代も終わろうとしている後半。来る2000年の介護保険スタートを目前にして、日本中の各産業大手企業の一部や、高齢者介護を業にしている中小介護事業者等はその市場規模を計りつつ、新しい日本の新制度への参入を企図していた時期であった。

廣済堂グループの社内には、社員による「提案制度」というのがあった。業務改善や福利厚生、更には新規事業に至るまで「縁あって集まった仲間が知恵を出し合って研鑽努力し、全ての社員が幸せになっていく」為に必須の制度の一つだったと言える。また労働組合に代わる「同志会」という組織が各職場にあり、社員や、希望すればパートアルバイト社員に至るまで参加できた。社内提案された内容は、まず各職場のその「同志会」理事達により検討され、二次審査は職長、そして役員審査へと段階を経て採否が決定する。

同志会の事務局長を長年務めた立場から言うと、単なる要望、希望、具体性のない夢物語を提案してくる社員もいたが、殆どはそれなりに自身の得意な分野で考察を極めて提案していたように思っている。そんな中から採用された提案は即刻実施に移され、当時の社長がいつも言っていた「拙速を貴ぶ」事の効果も、ある意味業績に貢献していた。

当時は確か、印刷業の将来を見据えた視点も割と明らかになっていた時期で、筆者は思い切って自社業界とは全く縁のない「国の新制度としての介護保険下での高齢者介護部門への参入」を綴った提案を出した。勿論、現在では実績のある、介護保険業界の各種集計数字などは当時は読めなかったが、高齢化社会を迎えつつあることが顕在化し始めていた当時、市場規模の大きさから参入は全く誤らない成果が見込めると考えていたので、提案参加賞のみ受けて、「不採用」になったと聞いた時には、先を読めぬ役員経営陣に落胆したものだ。

その後、世間巷からは色々な報道や情報が耳に入ってきた。JR西日本が参入、フランスベッドが参入、ニチイ学館やベネッセコーポレーションが参入、大手の医療法人も準備を始めだした等々・・・。その頃の筆者は官公庁担当者ばかりの営業課の責任者をしていた。各役所にはどこにも「介護保険準備室」なる部署が新設され、それまで措置としての介護を受け持っていた社会福祉協議会が、既得権益を守る為に保険制度としての介護保険開始にかなり危機感を持ち始めてきたなどという情報も漏れ聞くようになった。

入社した頃、性格的に「継続」「忍耐」「努力」という事に重きを置き、「この企業は定年までは何があっても続けるレール」と捉えていたので、提案不採用の時点では全く転職など考えも及ばなかったが、前述の様に世間が動き出すのを目の当たりにし、提案後1~2年は様子を見ていたが、自身の会社がいつまでもそれらに目もくれないという現実に不満を感じる事が増えてきた。

あとは読者の想像にお任せしよう。もうお気づきであろうが、遂に、形としてはこちらの方から見限ってしまったのである。「乗り遅れるな!」。自身の力不足で乗り遅れるのならそれはそれで諦めも付こうが、周囲の誰もがそれに気が付いていないように見えてきたというのが転職決意の一番の理由だったかも知れぬ。「このまま乗っていれば、遅れて、見えなくなり、沈んで、皆と共にのたれ死んでしまう。」

ところで、その結果、転職した先は㈱COMSN。後年、世間を騒がせたコムスンではあるが、当時は本社のある九州、大阪、東京、宮城に数か所の営業所のみある小規模の企業で、創業者である代表者はベンチャーとは遠く縁のない福祉畑に貢献したK.E.氏で、グッドウィルグループの一員企業ではなかった時代のコムスンである。そこの淀川ケアセンターのセンター長として転職叶ったわけである。

次回はコムスン入社の状況と、全く違った社風人材、待遇、その頃に感じた事等を書こうと考えている。

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