■『磨れない唐墨』・驚愕の事実■贋作・見分け方

以前、「燃える端渓」という副題で記事を起こしたことがあった。アクセスは今でも多く、平和な我が国においては全く想像もつかないことであるせいか、興味深く読んでいただけるようである。そこで今回は久々に同様の事実、というか、気をつけなければいけない事を紹介する。ただ、残念なことにそれを事前に発見する方法を筆者はまだ見つけ出せないでいる。

「磨れない唐墨」。唐墨とは文字通り中国製の墨の事である。その中でも特に明時代の明墨や乾隆御墨に見るような清朝時代の高級墨、またそれを真似た倣造墨、中でも倣古墨の贋作について、その驚愕の事実をお知らせしたい。

前述の倣造墨や倣古墨というのは以下のようなものだ。古来の墨造りの名人の名墨を再現しようと後世の墨匠が真似たものを倣造墨といい、よくできた倣造墨は、名人が使った伝世の型木まで使って名墨を再現される。民国時期によく行われた倣古墨も当初は同様の範疇だったのであろうが、そのうちそれが売れると知ると、型木まで忠実に再現し、俗に言う作った時代も型も材質も違った、「本物の偽物」を作るようになる。

目的が変わると、まじめに倣造墨や倣古墨を作っていた頃に対し品質も悪くなる。そればかりか、磨れなくてもいいから表面の形状だけ同じにするようなまがい物が出現してくる。すべて人を欺いてでも利を得ようとする意識が高まるからである。売れば売りっぱなしで勤まるモラルの低い世界が普通の地域ほど、その傾向は強い。管理の進んだ現在の日本では考えにくいことではあるが・・・。

古より、大陸でも日本でも同様の時代や流行があった。古伊万里の皿や壷の底等には明朝時代の萬暦年間や成化年間の銘があるものも多い。また中国においても日本の天保の時代の年代を表した陶磁器等もある。すべては当初はそのすばらしさを認め、模倣したのが始まりである。当初から悪意の偽物を作ろうとしていたのではないのだ。

しかし、こと墨に到っては、その物自体を磨り減らしてその墨汁を得、かつそれで材料とし、絵画なり書なりを完成させる。いわば道具ではなくて材料という見地からも、使って磨耗させてみないと正体は判らない、という困った条件が伴う。

最近では、小学校では筆も持てない教員が、児童には書道具セットなる不要極まりない道具までもまとめられたセットを、業者の言いなりになり購入させている。購入させられた児童に訊くと、硯や墨の名称はおろか、どのように使い、どのような物であるかさえ習ったことがないという。硯を墨池代わり、墨を紙鎮代わりに使うことのみ教えている現状下、教員がそれらについて全く未知であることが伺われる。

さて、本題から離れたが、固形墨。それも漆煙墨は値金千金という明墨や清朝御墨等は大きさもかなり大きく絵柄も多岐で、今では「鑑賞墨」の範疇に入れる人たちも多いが、数百年経ち、かなり膠の抜けた状態になってもその墨色は衰えず、そして現在では希少価値という意味でも文化財という意味でもかなり高い評価がされている。大きさ30cmを標準としてかなり大型の物で、それに伴い硯も大型の物が必要なそれらは、原材料もたくさん必要としていることは当然のことである。

高価な材料(ここでは煤であるが)を大量に必要とし、手間をかけた絵付け、外装の箱等の手配まで考えれば、大型墨の模造品とて鑑賞墨の類はかなり作成に費用がかかるであろうし、かの国の似非商品製造者たちがいろいろ考えだすのも不思議ではない。以下に驚くような「墨」を紹介する。

「墨は墨でも、外側のみの墨」。これも日本人には想像できないであろう。最近では、発色を良くするため、科学薬品やインキを混ぜた漆煙墨や松煙墨も多く、それらは廉価でかつ製造も機械で簡単に作られているが、今日ここで紹介するのはそれ以下の、墨とは言えない恐るべし模造品である。

それは、表面全体は紛れもない本物の墨であるが「中身はセメント」という代物である。勿論知らずに硯に当てると、そのうちに気がつかぬうちにセメントの部分が出てきて大切な硯を台無しにする。考えるだけでも恐ろしい墨である。別の表現をすればチョコボールのチョコの部分だけが真性の「墨」で(これも品質はバラバラである。)、中心をなすのは「墨」などではなく、漆煙墨に近い重量のセメントでできている「悪意漲る似非墨」である。

見極めるにはいろいろ方法はあるだろうが、究極は「磨ってみる」事の外にはなさそうだ。筆者は数多く仕入れる際は、泣く泣くその一つを糸鋸で切断する。下部約四分の一のところを切り、かつその切った部分を硯に当ててみる。そうすることにより断面の様子も観察でき、ある程度のリスク回避もできるが、色々な所から一つづつ買い集めたような場合はそういう訳にはいかない。全てが使用済みの商品になるからである。

筆者はそうすることにより、偶々今まで一度も「似非墨」の被害に合った事はないが、友人の中には見事高級端渓硯を廃硯にした者もいた。まさか、そのような墨が公然と市中で売られ、今でも作られているとは普通の日本人では想像もできないことであろう。切断せずに簡単に判断できる方法も思い当たらないので話はここまでである。

恐るべし大陸の似非品事情である。豊かで平和環境溢れる環境に育った我々日本人。もっと更に危機管理能力を上げたいものである。

(画像は本題の墨とは無関係です。)

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