■東郷平八郎の二行書・掛軸・真贋■骨董品・扁額・絹書・明治・軍神・日本海・鑑定・花押・真筆・日露

昨日投稿の「元禄大判金」に続き、今回も「東郷平八郎の書」を題材として、骨董品の中でよく真贋を議論される物の一つである掛軸や扁額等の鑑定の方法について自分なりの意見を述べる。

東郷平八郎の書額や軸については、古物商の間では「10幅あれば11から12幅は本物ではない。」と誇張される程、臨書物や複製物、また印刷物を表装したような物が多い。果ては真筆を見たことがない人向けに、彼の発した有名な言葉などを意図的に作ったような物まである。

とは言え、彼は求められれば、かなり多くの、文言や気に入った故事の一節や漢詩などを題材に書を揮毫し、他の武人に比べるとかなり多くの真筆が残っていることも真実である。それらの真筆や、または資料が手元にあり実際に並べて比較することができれば、わりと容易に観察だけによる見極めができよう。

扁額や掛軸の場合、真贋を見極めるのには、通常花押や印鑑の部分をよく観察する。古くからそうであった印の摸刻による印鑑の偽物は、その刻者による意図的な物ゆえ、また現代では写真データに変換し全く同じ物を印材に刻すということもできるので、新しい作者の作品であれば全く判断が困難であろうが・・・。

花押については、本文や落款の書体と同じく、その形や筆跡の癖、筆勢にて見極めることが普通であろう。

さて、それ以外には。

時代や筆者の好みによる墨色の違い。紙(絹)の時代考証。裏打ちの状態。表装や軸層の状態、そして外箱などの素材やその時代の流行についても知っておくべきことであろう。

上記の殆どがクリアーできたとしても、裏打ちに使われた紙と糊が全く違う時代の新旧の物であったり、墨色が新しい現代の物であったりすると、かなり良くできた「真筆ではない作品」とほぼ断定できる。最近では墨にもインキなどを混ぜたものが多い。

最終的には作品の全体的な出来あがりから受ける雰囲気。全くこれは勘の世界であるが、第六感や違和感というものは結構外れないものだ。

筆者は本職の鑑定人ではない事を先に断っておくとして、今回紹介の二行書は、絹本、軸装、軸頭などは唐木に細かい銀象嵌、箱や外箱の時代雰囲気など何一つ申し分なく、書軸専門に取り扱う業者の多くが「おそらく真筆であろう。」という中、結論としてよくできた摸造品、という結論を出した。

筆致、筆跡、筆勢、花押など申し分ないほど東郷の書に近い。摸造品とした最終判断の根拠はその全体の雰囲気からくる感じである。彼の真筆と言われる書軸の他の物に比べ、かなり貧弱に感じる。軸装に負けているといえばそれまでだが、何よりも重厚感がない。文字の余白が大きすぎると感じている。

東郷ほどの武人が紙(この場合絹布だが)の面いっぱいに大胆に文字を書かず、その中心部に貧弱に揮毫するとは思えない。書とは人を表すものだと古来言われてきた。若い頃、みっちり勉強し、どっぷり書の世界に浸かった身としてこれは譲れない感覚である。

諸賢のお叱りを受けることがあろうかとは思うが、本作品は来週にでも預かった人に返すことにしよう。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク