●浪速の名所●大阪市『中之島・其の二』西地区

『中之島・其の一』では東半分の官公署や大手企業本社等、ビジネス街の地区の都市景観美について触れた。あくまでも本投稿は自身が名所として推薦できる地についての紹介と雑感記述が目的なので、ガイドブックのような詳細を求められる方には堪えられない内容であることは自覚している。申し訳なく思うがご容赦いただきたい。その上で今回は「大阪の中之島」という、現在の響きとはおそらく全く違う想い出に触れつつ紹介したいと考える。

現在、中之島には阪神高速道路環状線、同池田線、そして同神戸線が通っているが、池田線の「中之島入口」と「中之島西出入口」という名称の出入口のみ出入りができる。その「中之島西出入口」の設置されている場所こそ中之島の最西端、堂島川と土佐堀川が再度合流し、安治川という名称に変わり大阪湾まで流れ行くという西の剣崎である。東端の中之島公園の事を友人達とは剣崎公園と呼んだ。しかし西の剣崎にある小さな公園は誰もそう呼ばない。もともと水道局か何かの保安設備の為の空地であったせいもあるかもしれないが、昭和40年代くらいまでは安治川沿いにある中央卸売市場に出入する海鮮物や青果問屋の倉庫や鉄屑屋、それに自動車やタイヤの整備業者位しかなかった場所であるので、その広場の存在さえ殆ど知られていなかった。宗是町から西には電報局、昭和40年に建った大阪ロイヤルホテル、国際貿易会館、蔵屋敷の名残の倉庫群、通信局(現NTT)くらいしか大きな建物はなかった。国際貿易会館は国際会議場に、通信局跡地には中之島センタービルなど高層ビルに変わり、倉庫群には一時期ボウリング場ができたりしたが今では瀟洒なビルに変わっている。それより以西は野犬や捨て猫が極端に多く、そして架かる橋の下には縄張りでもあったのか、必ずと言っていいほど浮浪者が住んでいた。筆者が少年期を過ごしたのは正しくそのような西の果てであった。そしてそのエリアは三方を川で区切られ、橋を渡れば異国のような気分であった。

「中之島」という響き、「大阪の中之島で生まれ育った」と言うとまず間違いなく「中之島に人が住んでるの?」と訊かれる。東地区のイメージで訊かれるのであろう。まさか、中之島に都市ガスも下水道も引かれていなくてゴミ収集車も一切来ず、近所の人々は夕方になると家の前の堤防越しに川にゴミを捨てるという有様、代わりに汲み取り車が定期的に来るという地域があるとは、一般人は想像もつかないのであろう。それほど取り残された地域であった。勿論子供会や自治会組織も地域にはなかった。かなり大きくなってから中之島全体の子供会があるらしいと聞き、ビルの一室の事務所に行ったところ、中之島全体で会員は数名ということだった。戦前は中之島小学校というのが在ったが、当時は既に廃校、川向かいの堂島小学校の校区になっていた。そのような状態だったので、中之島西地区は、埃っぽく暗く、幼馴染どころか子達の遊ぶ声も一切なく、犯罪者さえ近寄らなかった地域だったのかも知れない。

川面に目をやると、それはもう、今では満潮時ボラなども遡上してくるが、当時はヘドロと油の川。当時の中之島西から川口町周辺の時代を描写した「泥の川」という映画があったが、まさしく生き物は居らず、たまに流れ着く亀の甲羅は洗剤と束子で三日洗っても油が取れなかった。ゴミと動物の水死体と悪臭だけの川であった。第二室戸台風来襲の際に床上浸水した家々の中には、水が引いた後、何本もの油の線が何年も残っていた。そのような事件があり堤防はすぐさまかさ上げされた。

しかし、天神祭の時は嬉しかった。家の前の堂島川にも裏の土佐堀川にもドンドコ舟が日に何回もやってくる。その度に走って出てコンクリート製の堤防に上がるか家の二階に上がるか、いずれにしても真夏の風物詩を直に体験できた。都会の泥と油の川に、賑やかな太鼓と鐘の囃子を響き渡らせながらやってくる飾り付けられた船に、日頃とのギャップを楽しんだ。また、堤防の向こう側には現在では考えられぬが梯子や階段が何箇所かあり、誰でも降りる事ができた。危険極まりないが水遊びも良くした。正月には凧糸をいくつも繋ぎ凧揚げをした。2~300メートルも繋ぐと糸が切れる。切れて遠くの方に落ちて行く凧を、父と車で江戸堀方面まで探しに行く。高層ビルの無かった時代ゆえである。自転車の後方に糸で磁石をくくりつけたものを引きずる。そうすると砂鉄や、時にはニッケルの50円玉がくっついてきた。地面は土の部分がないのでビー玉もできず、ましてや勝負する子供も近所にはいないのでベーゴマや探偵ごっこすらもできなかった。

と、一気に当事の想い出を記したが、それは今のこの地域との差を感じて頂く為。2,000年ごろから急速に開発が進み、今では中之島の堤防沿いを一周できる遊歩道もでき、映画の撮影や水上バス、そしてうまく配置された公園や川辺のレストランなどもでき、更に大きな変化は中之島西部の堂島大橋の袂まで電車が通じた事である。当時は45番か53番系統の市バスしか交通機関がなく、陸の孤島であったこの地域に遠方からでも気楽に訪問する事ができる地域になったのである。正しく隔世の感とはこの事だと感じ入っている。

交通の便が良くなり、水質汚濁防止法等の遵守と国民の中流化によって、今、中之島西部も刻々と美しく清く都心化している。今後益々発展し、それこそ川を越えた福島区や西区あたりも一体化していくであろう。もし、現在観光で訪れる時間がある方には、若干でも昭和を感じられる今のうちに訪問しておかれてはと考える。決して危険ではない都会の田舎スポット。もうそれも間もなく完全に消え行くであろう。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク