●浪速の名所●大阪市『中之島・其の一』東地区

江戸初期より経済文化の中心であった中之島地区を、「名所」としての括りで紹介していいのかどうかの判断は読者に委ねるとして、我田引水、筆者の生まれ育った地として是非「浪速の名所」の最初に挙げさせていただきたい。中でも近年開発が進み始めた西地区とは一線を画す東地区の簡単な紹介と、地元民であった者ならではの昭和後期のエピソードなども織り交ぜさせていただく。

大阪市北区中之島。大阪のみならず、関西を知るビジネスマンやゆかりの方々の持つイメージは、大都会の中心地、水の都にふさわしい風光明媚かつ都会美溢れる地というのが一般的であろうか。特に都心の公園の中では大阪城公園と共に群を抜く中之島公園のビルに囲まれた夕暮れの景色などは、幼少時住んでいた者にとっても今でも変わりない美しさとして、是非来阪(大阪に来る事)の節は味わってほしいと思う都市景観美である。天満橋から眺める剣崎の景色、渡邊橋周辺からの西方の夕暮れ、田蓑橋あたりから四ツ橋筋方向に視線を向けると、八百八橋と言われた堂島川にまたがる高速道路やビルの数々。このような景色は広大な首都東京や過疎地の山村漁村ではまず見る事のできない文化と歴史が凝縮された景観であり、大阪市内でも数少ないものであろう。

中之島は淀川の本流(大川)の中洲で、琵琶湖から京都を経て流れる淀川水系の河口近くの大阪平野という扇状地にできたいくつかの「島?」の一つである。今は埋め立てられ名残もほとんど無いが、堂島川の北側にはその昔蜆川という川が流れており、それと堂島川に囲まれた中洲が現在の堂島であった。中之島と堂島が南北に並んでいたという地である。その昔、海運が物流の主流だった江戸期には内陸からも、また大阪湾から遡って来る全国からの物資も米や青果を中心としてこの地に集積された。大川から分岐した堂島川と土佐堀川の二本の川に挟まれた東西約3キロのニガウリ形の中洲の東側周辺は近代になって東洋一の商工地と呼ばれた。江戸時代、人力によって掘られた現在の淀川(新淀川)が通じてからも文化商工の中心地であり続けたことはその繁栄の証であろう。

東西の地域に分け紹介するのは開発の進んだ今では意味のないことであるかも知れない。敢えてそうさせていただくのは、戦後、近年になるまでやはり開発の速度が大きく違ったからである。住民にしか知られない事柄なども含め、西地区については後日紹介の「其の二」に収めさせて頂く。まずは今回昭和30年代後半からの様子の変遷を織り交ぜて紹介させていただくことにする。その東西の分かれ目となるのが玉江橋と常安橋を走るなにわ筋であろう。このなにわ筋以東は全国に有名な明治大正建築である中央公会堂、図書館、旧市庁舎等の官公署や大阪大学の歯学部等があり昭和から平成に至る頃まで文字通り大阪の中心であった。朝日新聞大阪本社ビルやフェスティバルホール、タイ国の領事館の入った大ビル初め、関西電力や東洋レーヨン等大手企業の本社もあり、連なる建物全てが有名な状態であった。当事寿屋という社名だった今のサントリーの本社も中之島に在った時期がある。東端の公園から順に、中之島1丁目、二丁目・・・ときて、なにわ筋辺りだけが常安町、宗是町とよばれ、そしてまた西に進むに従い7丁目まで数字の地名が続いた。

中之島の剣崎、即ち、一丁目は中之島公園。バラ園で有名だが、オフィス街の公園として夕方にはカップルで賑わい、子供の頃休日には貸しボートも出て昔も今も賑わってはいるが、土佐堀川を隔てた南向かいの北浜の証券街は日本の約束手形発祥の地である中之島堂島周辺の米市場の名残である。また、近年はイベント開催も多く、明治建築の中央公会堂など夜間ライトアップされ、都会の喧騒を忘れる事もできる。更に日没近くなるとひしめき合うビルビルの窓に明かりが灯り、西に沈む夕陽や月との対比が美しく、特に都会以外からの観光者にも感激を与える事間違いない。

中之島は江戸時代、米や青果の集積場だったと紹介したが、堂島川土佐堀川の両岸は地方各藩の蔵屋敷が並んでいた。その名残でかかる橋の名には、土佐堀橋、肥後橋、筑前橋、越中橋等の藩名も残り、また船津橋や端建蔵橋、湊橋等、水運に関係する橋もある。また、豪商の名を残した淀屋橋など、歴史的にも調べればかなり興味深い地名が多い。現在は川の両岸に遊歩道が整備されている部分が多くなったので、是非徒歩での散策をお勧めする。

亡くなった明治生まれの祖母がよく言った言葉を覚えている。「中之島は最高の地。なぜなら都心で便利なことは勿論だが、何よりも犯罪がない。」確かに昭和45年前後まではそうであった。その後過激派による三井物産ビル爆破事件があるまでは。しかしその後やはり大きな事件は影を潜め、開発が遅れていた西方も含め平和な都会のど真ん中であった。ただ、中洲という土地柄ゆえ、台風や大雨の度ごと水没する中之島公園は、子供の我々にはいつもと違った光景が珍しく水没した公園内を自転車等で走り回り楽しんだものだが、往々にして水死体もよく上がったり、当事は油まみれだった川の水が自転車や服にこびりついて閉口した事もある。高度成長期には連日の光化学スモッグで人っ子一人いない日もあった。そして日が暮れるとベンチに坐るカップルを狙う不審者の多い公園でもあった。何もかもすべてよし、という訳ではなかった事は明らかにしておきたい。

最近の有名建築や見所、イベントについては行政初め各種行事主催者の広報にくわしいのでここでは控える。しかし、現在の開発が進んだ中之島については、西方も含めなかなかの名所であることは否めないと感じている。自身にとっては唯の勤務地、という方も多いであろうが、視点を変えて、中世より栄え続けたこのせまい独特の文化地を楽しんでいただきたい。出張等で地方から来阪の方々には更にそう期待する。

中之島を離れ40年。故郷を注視し続けてきただけに、一歩引いた広い視点で紹介したい。

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク