関西の名所●大阪梅田『泉の広場』●ウメ地下・ホワイティー梅田・地下街・通学路

今日を最後に少年時代の思い出の地、梅田地下センター東端の「泉の広場」が無くなるという。

初めて見たのが、ここができた昭和45年。12歳、中学入学時で、通学路だった。

北区の西端、中之島7丁目(今は3丁目と住居標記が変わっている)から中学まで距離にするとたったの1.7kmだったが、小学校時代から堂島までバス通学であったので、その先の中学校までは当然大阪駅前でバスを乗り換える通学方法であった。

母親に連れられ、入学式当日、大阪駅中央口の終点でバスから降車。確か当時、大阪市バスの27番若しくは37番に乗り換え、さらに二つ目のバス停で降りるはずだったが、二人は地上を歩くことにした。

大阪駅前は、阪急阪神の両百貨店があり、地上の横断歩道ならかなり迂回しなければ扇町通りに出られない。当時から地下街文化であった梅田なので、富国生命ビルのあたりまで地下街を通ることにした。

まだこの時代は地下街には傷痍軍人の団体や地価の柱ごとに陣取る新聞屋、靴磨きの人、そしてルンペンと言われた色々な人が居り、暗くてジメジメした雰囲気が漂っていたが、富国生命ビルの方に行くと、割と明るく、清潔感があった。

その日は、母も筆者も初めての道だったので、地下街から富国生命ビルの地下階に入り、エスカレーターを使って地上に出た。そして、事前の予習通り扇町通りを東進。学校に着いた。

数日し、始業式の日、朝、筆者独りで学校に向かった。少し早めに家を出た。そして先日通り、大阪駅にてバスを降車、先日の道を辿った。

しかし、である。富国生命ビルに入るところの通路がない。良く見るとシャッターが下りている。頭が一瞬にしてパニくる。ほかの道は知らないのだ。梅田エリアから先の地理は、来たことが無いので全く分からない。

このままでは遅刻をする。またバスを降りた地点まで戻ろうか?戻っても同じ。大阪駅前から全て地上を通って学校に辿りりつく道も知らない。一か八か、シャッターの所から元来た道を戻り、地下の通路まで戻った。

そして、一気に、というか、不安をいっぱい抱えながら来たこともない地下街の奥の方に進路を決めた。

ところが、2~3分歩くと行き止まりになった。周囲には四方向におそらく地上に上がる階段が見える。上がっても見知らぬ光景であろう。時間は刻刻と経過するように感じる。学校に遅刻する・・・という不安がよぎる。

今から考えるとここが本日限りで閉鎖される「泉の広場」であった。子供心に、人影もない早朝の、壁だけ明るい、訳の分からない西洋風の噴水などあるこの広場がこの世のものと感じられず、それでも仕方ないので突き当り正面の左側の階段を選んだ。

結果、そこは数日前母と渡った横断歩道の傍であった。

以降、3年間、いやそれ以上に地元民として北区に住んでいる間数知れぬくらい通った道である。地下街は雨が降っても台風が来ても普通に歩け、時代が下ると共に商店も淘汰発展し、その栄枯盛衰を見続けてきた。

名古屋、東京、信州を転々とし、今でも当時のままだと思い続けていても、時は流れ、人は去り世は移り、今こうして「泉の広場最終日」の報道に触れると、年のせいも重なり、感傷的になる。

徒然に・・・、雅庵日記。

(アイキャッチ写真は記事とは関係なく、現在の有名待ち合わせスポット、紀伊国屋書店前のBIG MAN前)

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