『田舎暮らし・旬の食材』

『旬』という言葉のもつ意味がこの何十年かで変化してきている気がする。一体『旬』とは何であろうか・・・。感覚的には「採りたてのその時季の・・・」と想起されると考える。しかし、ただ「新しいだけ」、また、ただ「収穫直後の」というだけではなさそうだ。田舎暮らしの真髄である事は間違いない。

この時代、物流能力は大幅に進化した。野菜や魚を例に挙げれば、地域ごとの産物があり、個人商店での販売による地産地消が当然だった時代から、国鉄のコンテナ車等で近隣や少し離れた地域への出荷が中心となった時代を経て、今では大規模小売店と高速道路網の整備による夜を徹したトラック輸送による消費地の拡大、更に最近では飛行機のスピードの恩恵により野菜等に至っては外国産の食材の翌日販売も可能な時代になった。もう「新しい」収穫物を口に入れることは極く当然の時代になっているのである。

しかし一方、温室栽培や冷凍保存技術の進化で、一見季節感のない新鮮食材も溢れている。それらは『旬』の産物では無いのかどうか議論の及ぶ所である。大海原で捕獲されたマグロ等は船上で即座に冷凍され、完全な品質保持の元、水揚げされてからほぼ元通り解凍するという技術も確立され、また調光や空調管理や研究し尽くされた肥料によって季節に関係なくそれなりの味の野菜も収獲出来る時代でもある。

ここで、忘れてはいけない事がある。それは四季折々の人間の身体の状態である。四季のある日本の国においては、それぞれの季節ごとに欲する物が違うのが普通である。寒い季節、暑い季節、そして梅雨時や降雪のさなか、それぞれの時季の人間身体に合った物を口に入れたいという欲求である。それらと実際の季節ごとの食材が嵌った時に古来数千年進化して来た身体は『旬』を感じるのであろう。

ただ、しかし、全ての食材が四季に関係なく収穫や収獲できるようになったわけではない。自然界の食材には栽培が困難な物、その地域の風土や土質でなければ上手く育たない物、その年の気候に左右される物、その他色々な条件に合わなければ収量が激減する物もある。そういった上記の色々な条件に合わない産物はやはり今でも数多くあり、我々に『旬』の楽しみを与えてくれている。「京都山城の筍」「東北沿岸のフノリやマツモ」「各地の桃や梨等の果実」等々、現在でも数多く存在する。

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先日、南信州の隣家から破竹筍を戴いた。この時季各所でかなりの数が売られている。しかし、全くもって足の速い筍の類は、収穫後分刻みで味が落ちる。商店に並べられるまで何時間たっているのだろうか。また、購入後自宅に持ち帰り調理するまで如何程の時間が必要なのだろう。やはりこの手の産物は『旬』が大切である。収穫後すぐに調理し、極力早く戴かなければ『旬』の味は望めない。そういう意味でも真の『旬』の産物である事に間違いはない。

山菜然り、魚介類然り、田舎暮らしをして初めてその地域の『旬』の味を味わえるのである。これこそ田舎暮らしの真骨頂ではないだろうか。幸せを感じる食のこの事実こそ、『田舎暮らし』の最高の恩恵であると感じている。

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