台風の想い出■第二室戸台風■大阪市北区中之島低気圧高潮満潮

急に発生した今年の台風12号。本年初めての本土上陸という。

お陰で、主催のイベント2件、それも南信州と大阪市内のかけ離れた地で連続した日の催し事を抱える身には、ただでさえ別の地域の天気予報とにらめっこなのに、それほど大型でも強くもないとはいえ、台風という、局地的でかつ動きの早い気象現象には振り回され少し閉口している。

さて、台風といえば、物心ついた頃体験した「第二室戸台風」の体験がよみがえる。

伊勢湾台風、室戸台風、ジエーン台風、第二室戸台風の名は、当時では子供でも知っていたくらい大きな被害をもたらした台風達であるが、筆者にとっては実際に体験した最初のものとして特別なものである。

昭和36年9月16日、室戸岬に上陸したそれは最低気圧888ミリバール(現在はヘクトパスカルという単位に変わっている。)、上陸時925ミリバール、最大瞬間風速は室戸岬の風速計が84.5メートルで破壊されそれ以上という事からも想像を絶する強烈なものであった事が伺える。もちろん被災者の数も大きなものであった。

いろいろな数値を並べるのもいいが、この場では当時のこの目で見た光景のいくつかを紹介しよう。時系列や状態については筆者自身が数歳という幼少の時でもあり、誤謬があればご容赦いただきたい。

尼崎~西宮間通過という、まさしく阪神間直撃の台風であったが、その台風の目が通過したときは、父と祖父(どちらも故人)が「急に太陽が照ってきた。」暫くすると「風向きが変わった。」と会話していた。

二人とも自宅正面の二間幅の引き戸の最上段の透明ガラス越しに外を見ながら用心していたのである。それもその筈。自宅の道路を挟んだ向かいは堂島川の堤防。その堂島川を渡ると年少園児として通っていた幼稚園があったが、おそらく台風のせいだったのであろう、休園となっていた。

そのうち、父からとも祖父からともなく「あああ、来た。」というのを聞いて、風で飛ばされないように打ち付けてあったその引き戸越しに外を見ようとしたが透明ガラスまで背が届かない。祖父に頼んで抱きかかえてもらい見れば、向かいの堤防に何筋かの水の線が。川の水が溢れて来たのだ。

 

それから後は驚くほど早かった。抱いてもらって外を見たのは一瞬。そして地面に下ろしてもらった(自宅は土間であった。)とたん、閉めた玄関引き戸の隙間から既に家の中に黒い水が押し寄せてきたのである。二三秒の出来事であった。

すぐに家人は二階に。二歳になる少し前の弟と筆者は、祖母や母が用意した非常持ち出し品とともに二階に抱いて運んでもらった。

それからの記憶は断片的であるが、真っ暗な中、細い蝋燭の明かりの元で食べた赤貝の缶詰(生まれて初めて食べた味だった。今でも美味くないと思うのはそのときのトラウマか。)、定期的に父と祖父が家の外に流れ出た家財道具を回収に行く。自宅内の二階から階下を見ると真っ暗で階段の途中まで水が来ている。

父に聞くと、大人の首までの水深らしい。当時の家具や建具は殆どが木製だったので、玄関の引き戸も、机も椅子も箪笥も流れていくので時折回収に泳ぎ出て行くのだという。もちろん今では想像もつかない、油とゴミとヘドロだらけの水の中へである。帰って来る度祖父も父も着替えていた。それらに輪にかけて、当時の便所は皆汲取りだった。その糞尿も一緒に流れ出ているという。子供心に父は偉いなあ・・・と思った。

当然停電ではあったが、蝋燭を用意していたようで、そのほの暗い明かりの中での生活だった。何でも、準備していた太い蝋燭を二階に上げるのが間に合わず、仏壇の細い蝋燭だけが頼りであった。

翌朝、家の前の中之島通りに船が来た。子供なので、その、道路の上で船を漕ぐというおかしな光景が非常に印象的であった。船には、二人の男性が・・・。もう何をくれたか記憶はないが、二階の窓から手渡しで何か食料を配っていた。皆、黒い装束をしていた気がする。

前後するが、前日風がきつくなった頃、瓦がちり紙のようにバラバラと飛んでいった。色々な物が飛んでいった。大人たちは「危ない」としきりに言っていたが、子供の筆者にはそんなことは分からない。明るい日中、黒いものが飛んでいくのを眺め続けた。大人になってから知ったことに、台風の多い関西の瓦屋根はすべて台風対策のため瓦を土で固め、屋根自体が飛ばないようにその重量で押さえ続けているということもそのときの経験が理解を容易にした。

自宅の前は堂島川、裏は土佐堀川、西側は150メートルでそれらが合流し、安治川となる。映画「泥の川」のまさしくその舞台の地である。川には橋が架かっている。二階から見ると水量も分かる。氾濫した後、家の前の上船津橋の上には傘を差した女性が一人取り残されていた。橋は周囲の道路や堤防より高いのだ。台風の目が通過の小康状態の時だったのだろうか、その女性は思い切ったように溢れた水の中へ、つまり、浸かってどこが道やら知れぬ水没した道路の方へ歩き出した。祖父が「あの人、危ない・・・。」と呟いていたが、彼女のほうもその橋ごといつ流されるか知れぬ橋の真ん中に独り居るのは相当不安だったのであろう。我々も助けにも行けぬ。その後その女性がどうなったかは知れぬ。土佐堀川の方に歩いていったところまでは見えた。

水の引いた後、それは数日後のことではあったが、近所皆、中之島通りの車道に家財道具を洗って干した。最近の物の溢れている時代とは違い、捨てることなど誰もしなかった。泥と油でまみれた畳は、逆V字形に立て、干した。

家の中のヘドロを水で落とすと、そこには水平に何十条もの油の線が・・・。如何に当時の川の水が油だらけであったか。水が引いては止まり、その都度同じ高さで壁や柱に太い線や細い線として残るのである。

引用写真を少しだけ掲載したが、当時の写真は持ち合わせていない。カメラも水没。というより、そのような光景を撮影している間はなかった。生きていくために行動することで精一杯だった。もちろんボランティアなどなかった。すべて自力であった。

後年、生前の父に聞いた。被災者への補償は税金の減免だけであったと。しかしそれが普通であると考えていた。そういう意味では現代は、原因も復興の遅れも不便な避難生活も、誰かのせいや行政等の責任にする国民が多すぎる。情けない国になったものだ。

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